役名
- 曽我五郎時致 (そがのごろうときむね)
- 曽我十郎祐成 (そがのじゅうろうすけなり)
- 馬士畑右衛門 (ばしはたえもん)
- 大薩摩主膳太夫 (おおざつましゅぜんだゆう)
古井矢の根の場
伝え聞く、養由(ようゆう)が矢先は高麗(こま)唐土(もろこし)、近く和朝(わちょう)を尋ぬれば、鎮西(ちんぜい)八郎為朝(ためとも)、源三位頼政が、古今無双の弓勢(ゆんぜい)にも、勝りはすとも劣らじと、天性(てんせい)不敵の気丈者。
虎と見て石に田作(たつくり)掻膾(かきなます)、矢立(やたて)の酢牛蒡(すごぼう)煮こごり大根、一寸の鮒に昆布(こぶ)の魂、たとえば佑経せち汁の、鯨の威勢振るうとも、われ鯱鉾(しゃちほこ)の飾海老(かざりえび)、赤(あけ)えは親仁が譲りの面、つらつら世上をかんすの蓋、ちろり燗鍋(かんなべ)文福茶釜、毛抜(けぬき)鋏(ばさみ)の折れまでも、古がね買(けえ)に遣(やり)り羽子(はご)の、一夜明けても旧冬の、くさりかたびら籠手脛当(こてすねあて)、臑からひだいも乾貝(ほしがい)も、取るに取られぬ酒屋の通い、しめて十七貫八百六十四文、横に子の日の初寅(はつとら)も、喰合(くいえい)のねえ福の神、どうで貧乏するからは、自問自答の悪たいを申して申さく。まず大黒(でえこく)は慮外(りょげえ)もの。
とはどうじゃ。
はて不断(ふだん)頭巾を脱がぬわさ。
恵比寿は身持(みもち)がうそぎたない
とはどうじゃ。
はて鯛をお抱きの脇の下。
江戸前(めえ)にてもあらばこそ。
精進日(しょうじんび)には付き合われぬ。
毘沙門天の兜(かぶと)頭巾(ずきん)な、用心過ぎてうっとうしいわ。
布袋は土仏(どぶつ)、福禄寿は、
月代(さかやき)剃るに手間がいる。
弁財天は船(ふな)饅頭(まんじゅう)、波(なみ)乗船(のりぶね)の銭もうけ。
儲けらりょうが、られめえが、苦労にするは国土のたわけ。
富貴天(ふっきてん)にあり。
死生命(めい)あり。
いずれ、
祈るに、
所なし、実(げ)に顔回(がんかい)が陋巷(ろうこう)に、
一箪(たん)の食(し)、一瓢(びょう)の飲(いん)、
疎食(そし)を喰らい水を飲み、
肱を曲げて枕とす。
楽しみ新造(しんぞ)その中に、あるにまかする安煙草、煙管おっとり吸い附けて、鼻の先なる春霞、うち眺めつつ時致は、暖々(かんかん)としていたりける。
時に年始の門礼者(かどれいしゃ)、素礼(すれい)年玉鋏箱(はさみばこ)三味線箱の一(ひと)調子、声張り上げて物もう。
どうれ。
大薩摩主膳の太夫、御年始の御礼申しまする。
これはこれは。はやばやとの出語り御大儀に存じます。殊に年玉として末広ならびに宝船、上下を取って、ささ奥へ、祝いましょ。
いやそう致しては居ますまい、方々でござれば、猶永日(えいじつ)の時を期し、ゆるりと御意(ぎょい)を得ましょうぞ。
でもちょっと盃を。
いいや御免御免、春永(はるなが)にと言い捨ててこそ立ち帰る。
大薩摩主膳太夫なればこそ、この時致が所(とけ)え祝うてくれる。はてき奇篤(きどく)な男じゃなあ。
その時五郎年玉を、開くや扇(おうぎ)宝船、はて気のついたる年玉と、正月(しょうがち)心(ごころ)若輩(じゃくはい)に、上から読んでも長き夜の、下から読んでも長き夜の、とおの眠りのとろとろと、したたか過ぎたる雑煮ばら。
枕の下へおっかって、敵(かたき)佑経が首を引っこぬく夢でも見べいか。
食後の一睡(いっすい)一楽(いちらく)と、砥石を拭い無造作に、これ邯鄲(かんたん)の枕ぞと、ふんぞりかえって時致は、
やっとこっとっちゃあ、うんとこなあ。
暫しまどろむ高いびき、ゆたかにこそは臥しにけれ。
あらら不思議やうたた寝の、かたわら凄き風の足、実地を踏まぬ朧景(おぼろかげ)、うつつともなく、いと色青ざめたる顔色にて、舎兄(しゃきょう)十郎祐成忽然(こつねん)と現れいで、
いかに時致、われはからずも今日佑経が館に捕虜(とりこ)となり、籠中(こちゅう)の鳥網裡(とりもうり)の魚、働かんにも力なし、急ぎ来りて急難を救いくれよ。こりゃ弟、起きよ時致。
起きよ五郎時致と、言うかと思えば忽ちに消えて形は失せにけり。
時致夢覚めむっくと起き、あたりを見れども人もなく、茫然としていたりける。
さては夢中に兄祐成、念力通じて急難を救いくれよと告げたるか。たとえば佑経、天へ昇らば続いて昇り、大地へ入らば同じく分け入り、日本六十余州は目(ま)のあたり。東は奥州外(そと)ヶ浜。
西に鎮西、鬼界ヶ島。
南は紀(き)の路熊野裏。
北は越路(こしじ)の荒海まで、
人間の通わぬところ、
千里も行け。
万里も飛べ。
イデ追っ駆けんと時致が、勢いすすむ有様は、恐ろしかりける次第なり。かかる所へ向うより、
馬附(うまつけ)大根(だいこ)の春あきない、大根大根と売りに来る。時致これをきっと見て、これ幸いの肌背馬(はだせうま)、値は望みにまかすべし。
馬をかせかせ。
その馬貸せと近寄れば、馬士(まご)も気おって狼藉なり。
商い馬に乗らんとは、びゃくらい成らぬ、成らないぞ。
びゃくらい成らぬと言うところを、引っ掴んで七八間、エイエイヤッと人礫(つぶて)。
手綱おっとりひらりと打ち乗り、手頃の大根千里が鞭。
直(す)ぐに行けば五十町。
廻らば三里三ヶの荘(しょう)、宇佐美(うさみ)久須美(くすみ)河津が次男。
曽我五郎時致が、曲馬(きょくば)の程をこれ見よや。
工藤が館へ急ぎしは、ゆゆしかりける次第なり。
幕
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