歌舞伎十八番の内 矢の根

歌舞伎十八番の内 矢の根

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目次

役名

  • 曽我五郎時致 (そがのごろうときむね)
  • 曽我十郎祐成 (そがのじゅうろうすけなり)
  • 馬士畑右衛門 (ばしはたえもん)
  • 大薩摩主膳太夫 (おおざつましゅぜんだゆう)

古井矢の根の場

大薩摩

伝え聞く、養由(ようゆう)が矢先は高麗(こま)唐土(もろこし)、近く和朝(わちょう)を尋ぬれば、鎮西(ちんぜい)八郎為朝(ためとも)、源三位頼政が、古今無双の弓勢(ゆんぜい)にも、勝りはすとも劣らじと、天性(てんせい)不敵の気丈者。

五郎

虎と見て石に田作(たつくり)掻膾(かきなます)、矢立(やたて)の酢牛蒡(すごぼう)煮こごり大根、一寸の鮒に昆布(こぶ)の魂、たとえば佑経せち汁の、鯨の威勢振るうとも、われ鯱鉾(しゃちほこ)の飾海老(かざりえび)、赤(あけ)えは親仁が譲りの面、つらつら世上をかんすの蓋、ちろり燗鍋(かんなべ)文福茶釜、毛抜(けぬき)鋏(ばさみ)の折れまでも、古がね買(けえ)に遣(やり)り羽子(はご)の、一夜明けても旧冬の、くさりかたびら籠手脛当(こてすねあて)、臑からひだいも乾貝(ほしがい)も、取るに取られぬ酒屋の通い、しめて十七貫八百六十四文、横に子の日の初寅(はつとら)も、喰合(くいえい)のねえ福の神、どうで貧乏するからは、自問自答の悪たいを申して申さく。まず大黒(でえこく)は慮外(りょげえ)もの。

大薩摩

とはどうじゃ。

五郎

はて不断(ふだん)頭巾を脱がぬわさ。

大薩摩

恵比寿は身持(みもち)がうそぎたない

五郎

とはどうじゃ。

大薩摩

はて鯛をお抱きの脇の下。

五郎

江戸前(めえ)にてもあらばこそ。

大薩摩

精進日(しょうじんび)には付き合われぬ。

五郎

毘沙門天の兜(かぶと)頭巾(ずきん)な、用心過ぎてうっとうしいわ。

大薩摩

布袋は土仏(どぶつ)、福禄寿は、

五郎

月代(さかやき)剃るに手間がいる。

大薩摩

弁財天は船(ふな)饅頭(まんじゅう)、波(なみ)乗船(のりぶね)の銭もうけ。

五郎

儲けらりょうが、られめえが、苦労にするは国土のたわけ。

大薩摩

富貴天(ふっきてん)にあり。

五郎

死生命(めい)あり。

大薩摩

いずれ、

五郎

祈るに、

大薩摩

所なし、実(げ)に顔回(がんかい)が陋巷(ろうこう)に、

五郎

一箪(たん)の食(し)、一瓢(びょう)の飲(いん)、

大薩摩

疎食(そし)を喰らい水を飲み、

五郎

肱を曲げて枕とす。

大薩摩

楽しみ新造(しんぞ)その中に、あるにまかする安煙草、煙管おっとり吸い附けて、鼻の先なる春霞、うち眺めつつ時致は、暖々(かんかん)としていたりける。
時に年始の門礼者(かどれいしゃ)、素礼(すれい)年玉鋏箱(はさみばこ)三味線箱の一(ひと)調子、声張り上げて物もう。

五郎

どうれ。

大薩摩

大薩摩主膳の太夫、御年始の御礼申しまする。

五郎

これはこれは。はやばやとの出語り御大儀に存じます。殊に年玉として末広ならびに宝船、上下を取って、ささ奥へ、祝いましょ。

大薩摩

いやそう致しては居ますまい、方々でござれば、猶永日(えいじつ)の時を期し、ゆるりと御意(ぎょい)を得ましょうぞ。

五郎

でもちょっと盃を。

大薩摩

いいや御免御免、春永(はるなが)にと言い捨ててこそ立ち帰る。

五郎

大薩摩主膳太夫なればこそ、この時致が所(とけ)え祝うてくれる。はてき奇篤(きどく)な男じゃなあ。

大薩摩

その時五郎年玉を、開くや扇(おうぎ)宝船、はて気のついたる年玉と、正月(しょうがち)心(ごころ)若輩(じゃくはい)に、上から読んでも長き夜の、下から読んでも長き夜の、とおの眠りのとろとろと、したたか過ぎたる雑煮ばら。

五郎

枕の下へおっかって、敵(かたき)佑経が首を引っこぬく夢でも見べいか。

大薩摩

食後の一睡(いっすい)一楽(いちらく)と、砥石を拭い無造作に、これ邯鄲(かんたん)の枕ぞと、ふんぞりかえって時致は、

五郎

やっとこっとっちゃあ、うんとこなあ。

大薩摩

暫しまどろむ高いびき、ゆたかにこそは臥しにけれ。
あらら不思議やうたた寝の、かたわら凄き風の足、実地を踏まぬ朧景(おぼろかげ)、うつつともなく、いと色青ざめたる顔色にて、舎兄(しゃきょう)十郎祐成忽然(こつねん)と現れいで、

十郎

いかに時致、われはからずも今日佑経が館に捕虜(とりこ)となり、籠中(こちゅう)の鳥網裡(とりもうり)の魚、働かんにも力なし、急ぎ来りて急難を救いくれよ。こりゃ弟、起きよ時致。

大薩摩

起きよ五郎時致と、言うかと思えば忽ちに消えて形は失せにけり。

時致夢覚めむっくと起き、あたりを見れども人もなく、茫然としていたりける。

五郎

さては夢中に兄祐成、念力通じて急難を救いくれよと告げたるか。たとえば佑経、天へ昇らば続いて昇り、大地へ入らば同じく分け入り、日本六十余州は目(ま)のあたり。東は奥州外(そと)ヶ浜。

大薩摩

西に鎮西、鬼界ヶ島。

五郎

南は紀(き)の路熊野裏。

大薩摩

北は越路(こしじ)の荒海まで、

五郎

人間の通わぬところ、

大薩摩

千里も行け。

五郎

万里も飛べ。

大薩摩

イデ追っ駆けんと時致が、勢いすすむ有様は、恐ろしかりける次第なり。かかる所へ向うより、

馬附(うまつけ)大根(だいこ)の春あきない、大根大根と売りに来る。時致これをきっと見て、これ幸いの肌背馬(はだせうま)、値は望みにまかすべし。

五郎

馬をかせかせ。

大薩摩

その馬貸せと近寄れば、馬士(まご)も気おって狼藉なり。

馬士畑右衛門

商い馬に乗らんとは、びゃくらい成らぬ、成らないぞ。

大薩摩

びゃくらい成らぬと言うところを、引っ掴んで七八間、エイエイヤッと人礫(つぶて)。
手綱おっとりひらりと打ち乗り、手頃の大根千里が鞭。

五郎

直(す)ぐに行けば五十町。

大薩摩

廻らば三里三ヶの荘(しょう)、宇佐美(うさみ)久須美(くすみ)河津が次男。

五郎

曽我五郎時致が、曲馬(きょくば)の程をこれ見よや。

大薩摩

工藤が館へ急ぎしは、ゆゆしかりける次第なり。

参考文献

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